カルフォルニア物語
先物市場利用の試み
もう一つのカルフォリニア物語――挑戦するステーションオーナー
生き残り戦略=先物市場利用の試み
Gas-Station Owners Try Oil Futures Market
Wall Street Journal June 20, 2005
1950年代、少年だったウォルト・ドウェルは、家業のガソリン・ステーションを手伝うのが好きだった。価格が上昇すると、ドウェル家の人たちはブルーの
テンペラのペイントでブッチャー・ペーパー(肉屋で使う包装紙)に「19.9セント」などと書いて、ステーション前の価格表の上にテープで張った。給油客
は流れるように入り、家業は繁盛した。
しかし、最早、そんなに容易いものではなくなった。ガソリンステーション・ビジネスは現在、混乱の最中にある。それはエネルギー価格の大きな変動によると
ころが大きい。原油価格が再び史上最高値を塗り替え、ガソリン・ステーションのオーナーたちは誰がまあまあの条件で仕入れができているか知ろうと必死だ。
ステーション運営のマージンは、家族経営(mom-and-pop、いわゆる三ちゃん経営)の独立業者からエクソンモービルなどの大手石油会社運営の社有
ステーションに至るまでかなり薄くなっている。
ドウェル氏やその他の独立系ステーション経営者は現在、自らの運を生き馬の目を抜く商品先物の世界で試している。仕入れコストを安定させ、利益を上げる取
引戦略が見つかることを願ってのことだ。この新世界では一つの判断の誤りが破滅をもたらすこともあり得る。しかし、これら神経質なルーキーたちの一部は成
功している。
昨冬、ドウェル氏と彼の3人の兄弟は彼らが取扱うガソリンの25%を先物市場の取引によって安値で固定した。これによって100万ドル以上の仕入れコスト
を節約した。3月、上昇一途の油価はピークを迎えつつあるとの読みに賭け、見事に的中させた。現在、彼らは一段高を見越し、ヘッジしている。全体として、
先物取引のおかげもあって、彼らの収支は過去13カ月うち、10カ月が黒字となった。
慎重に商品市場に参入したが、「最初、おののきを感じた」と57才のドウェル氏は言う。利益と損失の振幅は巨額になることもあり、予想もつかない。それは
長年にわたりキャッシャーを雇うことやスナック棚が常にちゃんと商品で埋められているということに気を配りながら過ごしてきたマネシジャーにとってはとく
に慣れないことだ。
しかし、その慣れないことに飛び込んでいるステーション・オーナーが増えつつある。業界コンサルタントによると、約20%のステーション・オーナーが今や
先物市場を利用しているという。20年前まではほぼ皆無だった。もちろん、これらステーション・オーナーによる先物取引の規模は、何十年もにわたり先物市
場で活発に取引してきたシェブロンやエクソンモービルなど大手の一貫操業石油会社とはもちろん比較にはならない。
現在、全米のガソリン・ステーションは16万9,000カ所。このうち大手石油会社が所有する、いわゆるカンパニー・ステーションは約5%。これら大手石
油会社と契約を結びサインポールを掲げて運営するステーションが約60%を占めている。残りの35%は、オフブランドの独立系ステーションである。業界は
多年にわたり整理・淘汰を続けてきた。それは環境規制の強化、自動車修理サービスからの利益低下、旧来のステーション3〜4カ所を置き換えてしまう巨大ス
テーションの登場に直面し、強いられたものである。結果として、全米のステーション数は1994年から17%も減少した。
ステーションの運営者はこれまで次に入ってくるトラック(タンクローリー)に積載した燃料油の仕入れコストに思い悩むことはなかった。精製会社は一般に非
系列向けノンブランド品を系列向けのブランド品より約2〜3%安く仕切る。これはブランド品に商品としての力があり、より意匠を凝らした添加剤を含んでい
るためだ。こ
の価格差が安価で飾りのない代替品を販売する独立系業者の足場を固めてきた。
大体の場合、卸価格は油価の下落や上昇の際、一律に調整されてきた。だから、ステーション運営者は単純に卸価格の変動分を小売価格に反映するだけでよかっ
た。給油客は文句を言うかも知れないが、エネルギー価格の大幅な変動もステーション間の競争のバランスをほとんど変えることはなかった。
しかし、過去18カ月間で2つのことが大きく変わった。一つはエネルギー価格の激しい変動がステーション・オーナーを仕入れタイミングについて時間刻みで
気にさせることになったことだ。相場の谷でより多くを仕入れ、ピークで仕入れを減らすようになった。今年のガソリン卸価格は1日のうちにガロンあたり10
セントも変動することがあった。そのような時、ステーション・オーナーの最も重要な決断は火曜日の午後の価格で値かタンクを補填するか、それとも翌朝まで
待って価格が下落するのを待つかといった類のものだ。
2つ目は、ノンブランド・ガソリンが最早、ブランド品に比べ常に安いという時代ではなくなったことだ。時として精製会社はノンブランド品価格を吊り上げ、
系列ブランド・ステーション向け価格を相対的に割安にする。また、ある時は製油所のトラブルなどで供給不足に陥ったり、投機筋の買い占めでノンブランド品
市場の価格がだれもが予想もしなかった水準まで急騰してしまうというケースもある。
競争力を維持するため、安価なノンブランド品への供給に頼る独立系のステーションにとって、「タフな時代になった」とOPIS(Oil Price
Information
Service=石油価格情報サービス社、米国を代表する石油卸価格の調査会社)のアナリスト、マリー・ウェルジ女史は言う。「かつて彼らは何世代にもわ
たって一つのマーケット・ダナミックスにならされていたわけで、今や彼らは殺されそうなのよ」。
伝統はドウェル家のビジネス、ネラオイル社(Nella Oil
Co.)に根深く流れている。社名はドウェル兄弟の祖父、ウォルター・アレン(Walter
Allen)に因む。ウォルターは1931年にガソリン・ビジネスに入った。社名のネラ(Nella)はアレン(Allen)を逆に綴ったものだ。
17.25セントと表示している由緒ある黄色と赤のポンプは、ネラオイル社本部のロビーを優雅に飾っている。
ファミリーのメンバーによると、近親者で固められてきたネラオイル社は、好調な時には年商約7億ドル、純益で少なくとも1,000万ドルを計上するとい
う。ネラは23カ所のディスカウント・ステーションを所有し、フラヤーズとオリンビアンの独自ブランドで運営している。さらに27カ所のステーションをエ
クソンモービルや他メジャーのブランドで運営。同時に燃料卸売とトラック(タンクローリー)配送も、中部および北部カルフォルニアで展開する。
「人は俺たちのことを大恐慌時代の倹約精神と軍事教練の混合物と呼ぶんだ」とウォルト・ドウェルは話す。ウォルトはネラ社の統括役であり、1971年に家
業のビジネスに入る前は、海軍のフライトオフィサーとして5年の軍隊経験があり、エジプトでソ連の軍事施設を監視してきた。彼の2人の兄、67才のトムと
64才のスティーブはともに空軍のパイロット上がりで、ベトナムでの戦闘に参加していた。弟のデービッドは56才で、唯1人軍隊経験がなく、ソーラーエナ
ジーの専門家である。兄弟4人とも、ジェネラル・マネジャーのリック・テスケとともにネラの取締役だ。
何十年にもわたって、ネラは燃料油の仕入れにそれほどの関心を払ってこなかった。経営陣はむしろステーションの看板、クリンリネス(清潔さ)やオンサイト
のスナックなど他領域に焦点を当てていた。ガソリンはほぼ毎日、条件はどうあろうとマーケットが定めるところで仕入れ、何カ月も先まで保証された価格での
供給約束をしたがらないサプライヤーに従ってきた。
ネラの取締役会ではここ数年、この受身のアプローチが非難を浴びた。「価格の下降局面では我われはよくやっていることは分かっていた」とスティーブ・ド
ウェルは振り返る。コスト切り詰めはゆっくりと給油客に転嫁できた。そのことでマージンも膨らんだ。しかし、製油所出荷価格が急騰すると、ステーションの
店頭価格はついていけず、ネラのマージンは急速に薄くなった。
スティーブが説明するには「我われはマーケットのレーザー・ビーム攻撃に対し、これをガードする防衛メカニズムを必要としていたんだ」という。
ネラでは一時、燃料油のトレーダーを外部から雇ったが、2002年になって結局、解雇した。トレーダーの取引のやり方があまりにも早撃ちすぎて、利益が上
がらないと経営陣には映ったからだ。ドウェル兄弟は再編成し、彼ら流のやり方を理解してくれる誰かに頼ろうと決めた。それでドロレス・サントスに目を向け
た。サントス女史はステーションのキャッシャーから転じてネラの供給・流通マネージャーになっていた。
サントス女史は2004年春からニューヨーク・マーカンタイル取引所(NYMEX)でガソリン先物を買付け始めた。毎月、30枚。先物契約とは将来のある
時期に受渡しする商品を取引するもので、取引単位のガソリン1枚はオクタン価87の無鉛物で4万2,000ガロン(1,000バレル)である。これはネラ
のアウトレットで1日に販売する量の約4分の1に相当する。ネラは実質的に将来のガソリン仕入れを予め決めた価格で固定することになった。その価格が最終
的に特価となることを願ってのことである。
NYMEXでは毎日、10万枚(1億バレル)ものガソリンが取引される。取引しているのは主に大手石油会社、ウォールストリートにオフィスを構える証券会
社、投資銀行、ファンドなどである。だから、国際マーケットはネラの取引活動による小波などほとんど感じはしない。
サントス女史は同時にちょっと複雑な「スワップ」についてもエネルギートレーダーと取引を開始した。カルフォルニア独特の環境対応型ガソリンの将来の価格
についてヘッジするものだ。ガソリン価格が上昇すれば、先物やスワップ契約はより有益なものとなる。しかし、ガソリン価格が下落すれば、そうした契約は損
失を生むことになる。ただ、その損失はネラのステーション・ビジネスからの儲けが膨らむため、結果として相殺される。
最初、すべては上手く進んだ。ネラが初期に買ったガソリン先物はガロンあたり1.30ドル(これは小売段階で付加される50セントもの税金は含んでいな
い)だった。2004年半ばにエネルギー価格が上昇すると、ネラがロックした先物の価格はマーケット価格をかなり下回ることとなった。そこでネラは買った
先物を納会まで抱えて、NYMEXを通じて現受けするのではなく、納会の1〜2週間前に手仕舞い売りし、そこで得た利益を通常のガソリン仕入れに支払う代
金として使用した。ドウェル兄弟もサントス女史も喜び飛び上がった。
2004年も秋口になると、石油価格は下落し、ネラの先物ポジションは壊滅的になった。サントス女史は打ちひしがれた。夜中の2時まで寝付かれず、
MSNBC(マイクロソフトとNBCが共同で運営するニュース専門チャネル)のビジネスニュースを暗闇の中で見たことを思い出す。「イラクでは戦争が続い
てて、私はそれがフレスノのディーゼル価格にどんな影響が出てくるのか心配しなければならないの」と同僚に話したことを今も思い出すと彼女は言う。オフィ
スで彼女は時々、パソコンの上に置いている小さなトラのぬいぐるみを掴み、同僚に投げつけてストレスを発散した。
元気づけてもらうため、サントス女史は毎日数時間をクリス・メニス氏と話す。クリスはエネルギー市場で25年ものキャリアを持つ、ベテランのコモディ
ティ・ブローカーである。彼は暇な午後にサーフィンが楽しめるように、数年前、カルフォルニア中部の海岸の町、アプトスに越してきた。彼の会社、ニュー
ウェーブエナジーはネラのすべての先物取引に関するブローカーとなっていた。
「クリスは私の牧師さんであり、母親であり、そしてカウンセラーでもあるわ」とサントス女史は言う。「私がなにか愚かなことをやろうとすると、私に大声で
叫ぶのよ」。
メニス氏はサントス女史にエネルギー価格が自分の思う方向にこないときに無茶な取引をしないよう諭したという。そんな時は先物ポジションを徐々に、日ごと
に減らすこと、とアドバイスした。そして、発作的にネラのすべての手持ちを一挙に投げ売らないこと。
「リスクを軽減するために先物取引しているの? それとも投機のため、儲けようとしているの?」とメニス氏は繰り返し繰り返し訊いた。日々変動するマー
ケットの曲折の裏をかくことで大儲けをしようと夢見るのは投機家だけとも諭した。緩やかなアプローチは利益を得るであろう最後の1セントまで掴むことはで
きないが、間違った勘をもとに高くつく取引に対し、ガードとなり得る。
ネラの本部でウォルト・ドウェルはコンピュータのスクリーン上に映し出される石油関連ニュースと変動する価格ボードにあたかも催眠術にでもかけられたよう
に食い入っていた。「まるでテレビゲームだね。これは」と彼は言う。「いったん、スクリーンを見出したら、止められなくなっちまう」。2004年10月、
原油価格はバレル55ドルだった。2カ月後には41ドルまで下落した。暖冬のため、暖房油需要が減るとの観測が下落の背景にあった。しかし、それから原油
価格は反騰に転じ、1月には48ドルに戻し、4月初めには58ドルに達した。中国の旺盛な需要とさらに高値を追うというウォールストリートの読みが後押し
したためだ。
その価格の動きは犠牲を強いた。ガソリン価格がガロンあたり2ドルを超えたのである。ネラのステーションでは顧客がオクタン価91のプレミアムガソリンを
給油するのをほとんど止めた。金持ちのBMVやコルベットの顧客まで割安なオクタン価87のレギュラーガソリンを給油しはじめた。しかし、このシフトはネ
ラにとって最大級のマージンをもたらす給油客の流れを失わせた。
一方、カルフォリニアの製油所トラブルはノンブランド・ガソリン価格の高騰を招いた。生産力以上の供給先を抱え、精製会社は彼らのブランド品を販売するス
テーションに最善の取引を提供し、他に対しては卸価格を吊り上げた。この結果、ネラのフライヤーズとオリピアンの独自ブランドを掲げるステーションは著し
く不利な立場に置かれた。仕入れ値が高騰しているわけであるから、選択肢は仕入れコストの上昇分を小売価格に転嫁して、給油客の流れを失うか、それとも小
売価格をそのまま安値に維持し、マージンが飛んでいくの指をくわえて見ているかのどちらかである。
2005年初め、カルフォリニアでは数週間にわたり給油レーンを閉鎖するオフブランド・ステーションも出た。濃い黄色のテープがかつては喧騒に満ちた給油
レーンからモーターリストの進入を阻んだ。スナック・ショップだけが営業を継続し、コーヒー、ドーナッツ、ビールを呼び売りした。ノンブランド・ガソリン
の卸価格がブラント品に比べガロンあたり15セント以上も高値となってしまえば、そうしたオフブランド・ステーションが給油客を魅了する方法は、破滅的な
ロスを出しながら販売する以外になかっただろう。
ネラはふんばりたかった。3月、サンフランシスコでデナーをともにしながら、ウォルト・ドウェルはとある精製会社のトップにノンブランド・ガソリンについ
て、価格を一時的に負けてくれないかと要請した。返事は後になって正式な高値のオファーという形で戻ってきた。その時点ではその価格もネラにとっては耐え
られるようになっていた。要請はムダだった。「彼は申し分なく誠心誠意だったよ」とウォルトは振り返る。「彼の結論は『マーケットが機能するとはそういう
ことで、我われはマーケットを尊重する』ということだったわけだ」。
ネラにとって幸運だったのは、サントス女史が絶好調だったことだ。2005年1〜3月期、彼女のトレーディングは150万ドルの利益をもたらした。ネラの
ステーションでの損失を相殺するには充分ではなかったが、それでも1〜3月期の収支をより耐えられるものにした。
2005年3月半ば、ネラの経営陣とアドバイザーは集まり、原油価格がバレル50ドルを大幅に超えて上昇しつづけるかどうか話し合った。何人かはイエスと
言った。しかし、ウォルトは、価格バブルは弾けようとしていると主張した。彼は、ネラはすべての先物のポジションを、予定より数カ月早いが、直ぐに手仕舞
い売りしようと決めた。それはそうすることによって会社が余分な利益を確保できるとの考えからだ。
ウォルトの決断は短期的に期待の成果を上げるに至った。原油価格が4月に50ドルを割り込んだからだ。しかし、ネラのコモディティ・ブローカーであるメニ
ス氏は、ヘッジしていなければ、ネラは次ぎのエネルギー価格上昇に耐えられなくなると心配した。そこでドウェル兄弟をすぐさま説得し、別のトレード戦略に
着手するよう促した。そのアプローチはオプション(訳注=この場合はコールオプション)を買うことだった。オプションとは将来に受渡する商品を決められた
価格で買付ける権利を与えるもので、買付ける義務は発生しない。この場合、莫大な量のガソリンを夏場にわたりガロンあたり1.95ドルで買付ける権利を得
ることだ。もし、価格がその水準を下回って推移した場合、オプションの権利を行使せず、取引は無益に終わる。しかし、ガソリン価格が急騰した場合、オプ
ションはネラに市場価格以下でガソリン供給を得ることを可能にする。
これまでのところ、ネラは1.90ドルのオプションを手仕舞ってはいない。というのもガソリンの卸価格は引き続き1.95ドルの分岐点の下で推移してきた
ためだ。しかし、原油価格が昨日(6/20)、バレルあたり59ドルを上回り、ガソリン卸価格はネラの保有するオプションが重要な意味を持つ水準に近づき
つつある。
一方、ドウェル・ファミリーの第4世代の2人がネラでの仕事を始めた。彼らは伝統的なマネジメント・プログラムのもとで訓練を受け、ガソリン・ステーショ
ンをどう運営していくかを学んでいる。しかし、そのうちの1人、トム・ドウェルの息子、ケン・ドウェルはサントス女史のもとで見習として先物取引を学び、
数カ月を過ごそうとしている。
「これをやる機会に飛びつきました」とケン・ドウェルは言った。「これ以外に我われの将来にとって重要なことは思いつきません」。
(了)